前回、書いたもの。
ほんとに安全で快適?
このことを、もう少し書いてみたい。
どういう時に自分のコンフォートゾーンと出会うのかなと考えてみた。
そのひとつは表現する時。
表現というとき、それはあることだけを指していない。
知り合いと話す言葉や表情、仕事の仕方、料理や絵や言葉やなにかを創作するとき、SNSの投稿、あらゆる場と時に表現がある。
でも普段、そのことをあまり認識していない。
友だちと話している時、これは自分の表現だなんて思って話すことはあまりない。
でもそのなにげない瞬間。その日常の反応はコンフォートゾーン内でのふるまい。
でもそのふるまいが意識的になると、コンフォートゾーン、自分の周りの見えない柵に気づく。
柵とか壁とかパターン、条件付けといってもいいと思う。
こんなことをしたらどう思われるだろう??
かっこよく見せたい、好かれたいとか、
どうすれば良い評価がもらえるか、
間違えてると指摘されないだろうか、
どうやってこのかんじを出せばいいのかわからないとか、
今起こっていることよりもイメージに固執するとか、
今自分の内で起こっていることを表現しようとする時、柵と出会う。
パターンを繰り返しているとき、その今起こっていることを見なければ、柵とは出会わなくてすむ。
それはわざと目を背けているのか、無意識に出会わないようにしているのか。
もし、わざとであればそれは柵とすでに出会ってる。
なんであっても、柵は「それまでの自分」に手を貸してくれる。今の自分ではなく。
それまでの自分をこわして、新しい自分になること。そんなかっこよさげな誘惑もあったりする。
一見コンフォートゾーンから出るようだけど、それはちがうのだよね。
コンフォートゾーンは普段の中にあるのだから、その中に変わる機会がある。
柵って鉄の硬いものでなく、まるで蜘蛛の巣みたいなんだ。
からまってまとわりついてなかなかとれない。
糸をはらうのは、少々面倒。
その自分を取り囲む蜘蛛の巣は、時には繭みたいに保護してくれて外からは自分の姿があまり見えないようにしてくれる。
そしておまけに、外側からの視線だけでなく、内側の観る目もかすませる。
そのからまり、かすみから出るには、ニュートラルな場所に立つ。その光を与えること。
今感じていること、
言葉にできない、したくないそのものに、そっと触れてみる。