時々、銭湯へ行く。
住んでいる場所の近くにはないので、少し離れたところへ行く。
え、わざわざそんなことするの?
わざわざそんなところまで?
など、そうゆう言い方をする人に時々会う。
わたしは反応する。
なんか気持ちよくない、聞くたびにそう感じる。
わざわざかどうかは、自分で決めるから。
話がもどり、
スーパー銭湯でなく、昔ながらの銭湯。
でっかい湯船とサウナと水風呂。もう最高。
わたしがよく行く銭湯のサウナの中で会う人はだいたい見知った顔。
わたしは誰かと喋ることはほぼなく、挨拶だけ。
喋るのが楽しみな人も結構いて、その人たちの話をぼんやり聞いたりする。
こないだ、その会話を聞きながらなるほどと感じたことがある。
「わたし」というのは、ほんとにものすごく力を持っているのだなと。
その力に、わたしは無意識に使われている。
そうか、こうやって「わたし」と「わたし以外」を分けてるのかと、
我というか、エゴと呼ばれるものがとてもよく見えた。
「わたし」。「わたしたち」。「わたしの(もの)」。
そして、それに該当しないものたち。
その該当しないものたちは別の「わたしたち」となって、わたしたち以外をつくる。
「わたしたち以外」「他者」「よそ者」と呼ばれるもの。
慣れ親しんだものである「わたし、わたしたち、わたしのもの」
「わたし」以外は、興味がない。
あるいは、気に入らないから、危険だから、避ける、追い払う、消そうとする。
話したり、書いたりするとき、わたし、という表現はとてもよく使う。
いつからわたしのことを「わたし」と呼ぶようになったのか、なにを指して「わたし」と言ってるのか、なんとなく、あたりまえに使ってきた言葉が、いつの間にか、こんなにも強固に育っていた。
あらゆる場所で、あらゆる方法で、「わたし」と「それ以外」に分けて分けられて、利用して利用されて。
「わたし」にどれだけ愛着、執着があるのか。それはわたしの想像を超えてる。
「わたし」はだれ?
問いかけてみる。
「わたし」から離れて、観る時間。
それがセッションの場でもあります。
ーーー
このセッションでは、今ある感情や感覚を元に、内側へ深く潜ります。
そこにあるもの。
それと出会う。