昨日、名古屋で行われている藤田嗣治展に行ってきました。最終日の前日です。

タイトルは、『藤田嗣治・絵画と写真』

この展覧会は、藤田が残した数々の写真を手がかりに、写真家としての藤田、そして写真と絵画の繋がりについて光を当てようとした新しい視点での展覧会でした。

藤田嗣治は、1886年生まれ、1913年パリに渡ります(〜31年)、当時のパリは、モジリアーニ、ピカソ、キスリング、ジャンコクトー、マン・レイ、壮壮たるアーティストたちが集まる街です。南米への旅、33年〜49年まで日本滞在、50年からフランスに永住し、68年に亡くなります。

藤田嗣治は、僕にとって、乳白色の柔らかい女性の肌、繊細な線描、絵の片隅でやたら存在感を表す猫たち、そして自画像、その多様な表現・・・どこかとても惹かれるアーティストです。

(一つ逸話です。ピカソが藤田の乳白色をどのように作るのか聞いたそうです。藤田は答えなかったそうです。誰も彼の乳白色は真似できなかったようです。アーティストとしての独自性をしっかり守るしたたかさでしょうか?)

と同時に、彼の人生に、とても興味があります。

1920年代のフランス画壇の寵児、パリの社交界の人気者、名だたるアーティストたちとの交流、数々の女性遍歴、異国での華やかで逞しい生き方、同時に、街の片隅での人々の生活への共感・・・

そして1939年以降、戦時下の日本での従軍画家としての活動、戦後、戦争協力者としての批判・・・

アッツ島玉砕

(藤田の家系は、陸軍関係者が多く、国民の一人として戦争に協力するのは彼にとって自然のことだったようです。と同時に、アッツ島玉砕のように戦争の悲惨さ、むごさを残すことなく描く様に、アーティストとしての矜持を失うことなく、戦争画を描き続けた様です。)

戦争協力者として批判されること等、日本に嫌気が差して1949年日本を脱出します。そしてフランス国籍を取得し、フランスに永住、更にクリスチャンとしての洗礼を受けます。

怒涛のような人生遍歴の中で、何を感じて生きてきたのか、そしてどんな境地にたどり着いていたのか?

そんな僕の問いに、一つの答えを与えてくれたのが、ほとんど最後の展示作品になっていた、掌大の小さな自画像でした。確か1960年の作品でした。

(この作品は、ネットで見つけた1954年の自画像、展覧会で見た作品と一番近い様に感じました。)

そこには、深い静けさの中に全てを受け入れているような藤田の目が描かれていました。彼の晩年の境地でしょう。

1959年に藤田はカソリックとして洗礼を受け、60年台に宗教画を多く描きます。

そして65年には、フランスのランスに、平和の聖母礼拝堂(通称、フジタ礼拝堂)に着工、66年に完成します。68年自らこの地に葬られます。

神への帰依、祈りが、藤田の波乱万丈な人生でたどり着いたところであったのだと思います。

そして自画像の目は、それを表しているように感じました。

藤田嗣治(レオナール、フジター洗礼後、彼はこのように呼ばれました。)お疲れ様、アッパレ!!

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

寒くなりました。お体に気をつけてお過ごしください。

ギリ

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